福井市民の憩いの広場、足羽山公園の一番見晴らしの良いところに堂々と立っている継体天皇(けいたいてんのう)像。他県から見えた人たちにも自信をもって伝えられるように、継体天皇のことを知りましょう。

初代天皇は神武天皇(前660-585)であると「日本書紀」などに書かれています。しかしながら、15代応神天皇(270-310)までの約900年間は神話の世界のようです。古代の天皇については今もなお、実在性や在位期間について論争が続いています。
その後の26代の継体天皇については、存在したという考えは考古学的にも確実なようです。継体天皇が在位(507.2.4-31.2.7)していた時期は6世紀の前半、それから21世紀前半の現在まで、天皇家は15世紀、1,500年間も男系継承されてきたと言えるのです。このように継体天皇以後からでも1,500年という皇室の歴史になりますが、日本の皇室の歴史の長さは世界の王室の中でも最も長いと言えるのです。

継体天皇の皇位継承についてですが、25代武烈天皇には、後継ぎとなる子どもや兄弟がおらず、武烈天皇自身も後継ぎをだれにするのか決めずに崩御してしまったため、第26代の天皇はすぐに決まりませんでした。そこで、26代天皇として白羽の矢が立ったのが、第15代応神天皇の5代あとで遠縁にあたる継体天皇でした。現在の天皇家の礎は継体天皇であると考えられています。

継体天皇のことをもっと詳しく:「古事記」と「日本書紀」は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記しています。また、「日本書紀」はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記しています。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王(ひこうしのおう)を亡くしたため、母・振媛(ふりひめ)の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、「男大迹王(をほどのおおきみ)」として5世紀末の越前地方を統治していました。

「日本書紀」によれば、506年に武烈(ぶれつ)天皇が後嗣(こうし)を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかび)、大臣巨勢男人(このせのおひと)ら有力豪族が協議し、まず丹波国にいた14代仲哀(ちゅうあい)天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴(すいたい)しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされ、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、苦心しながらも平定する。(参照:日本経済新聞、宮内庁資料など)